azbil ウェブサイトで見る、山武記念館

ウェブサイトで見る、山武記念館 明治、大正、昭和を生き抜いた創業者山口武彦の、斬新な発想と手腕を日本の産業史に重ねて紹介します。

事業家になるという夢を捨てきれなかった男 山武創業前史 山口武彦の人生

1884年 16歳で鹿児島から上京。農商務省に勤める義兄の奥清輔の家に身を寄せ、
家事を手伝いながら進学の準備を行っていた…

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幼少期の武彦

1869

7月2日、鹿児島城下に生まれる。

奥清輔(武彦の義兄)
農商務省水産局長

1884

16歳で鹿児島から上京。農商務省に勤める義兄の奥清輔の家に身を寄せ、家事を手伝いながら進学の準備を行っていた。

1887

機械工学を学ぶために、東京職工学校(現:東京工業大学)に入学。

安田善次郎
安田財閥の当主(当時)

高橋是清
農商務省特許局長(当時)

1891

大学卒業後、義兄が勤めていた農商務省に入り、特許局審査官補の職についた。このとき、後の総理大臣である高橋是清との出会いを果たす。奥清輔は、親友であり初代の特許局長であった高橋に「義弟をよろしく」と紹介した。
高橋は、親交のあった安田財閥の当主安田善次郎から「釘を国産化するための勉強で先進国へ派遣する適任者を探している」と相談を持ちかけられた。高橋は、その人材として武彦を推薦した。

1896

武彦は安田の支援で渡米し、クリーブランドで釘を作る機械の研究に1年間没頭する。ドイツにも渡り、先進国の工作機械の視察を行う。

1897

こうして先進国の技術の勉強を重ねた武彦であったが、安田からの依頼で帰国し、北海道の鉄道会社の管財課長や造船会社の総支配人も勤めた。

1906

しかし、事業家になるという夢を捨てきれなかった武彦は東京に戻り山武商会を設立。日本の産業発展には先進国の優秀な工作機械の輸入が必須であると確信していた武彦は、欧米約50社の販売代理権を次々に取得。

1910

溶接に必要な酸素の国産が必要と考え、
日本酸素合資会社(現:大陽日酸)を設立。

1914

自身が輸入した工作機械で精密加工を行う、日本精工合資会社を設立

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日本産業界の品質向上と安全に貢献 山武商会創業から工業計器メーカーへの道のり

1906年 12月1日、東京市京橋区(現:東京都中央区八重洲)で山武商会が開店。
この日が現在のazbilグループの記念すべき…

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山武商会発祥の地

1906

12月1日、東京市京橋区(現:東京都中央区八重洲)で山武商会が開店。この日が現在のazbilグループの記念すべき創業記念日となっている。

1911

大阪に出張所を設け、その後順次名古屋、福岡、横須賀、呉に出張所を設置し、販売網を拡充。

1914

第一次世界大戦が勃発。これがきっかけで、地中海をイギリス軍に封鎖され、ドイツからの定期貨物船が日本に到着することが非常に困難になり、ドイツからの機械輸入に頼っていた山武商会は対策をせまられた。
欧州からの輸入が絶望的になると判断した山口武彦は、新興工業国であるアメリカからの販路を開くことを決意した。

山武エピソード

大正時代初期までは、溶鉱炉では温度測定ができず、職人が赤い鉄の色を見て温度を判断するという、経験と勘に頼る作業を行っていました。しかし、この方法では品質が安定しません。その中、武彦が日本に初めて提供した、ミリボルトメータと白金のサーモカップルを使用したパイロメータが活躍し、日本の産業界の品質向上と安全に貢献しました。

R.ブラウン社長

1917

10月に渡米し、各地のメーカーを歴訪。その成果として1920年にブラウン社と日本総代理店契約を結び、計器類の輸入販売をスタートした。

ブラウン社

1929

10月24日、世界恐慌が起きる。ニューヨーク株式市場の大暴落で、山武商会も創業以来最大の経営の難局に直面する。

1932

ブラウン社の工業計器の組立を開始。製品の主な部品はブラウン社から輸入するが、そのほかの部品は山武商会をはじめ、国内で調達した。

山武エピソード

最初の製品は下記のものでした(当時の米1俵の価格は8円20銭)。
・東洋バブコック(株)向けパイロメータ 1683円
・住友伸銅鋼管(株)向けパイロメータ 1500円
・大阪府工業試験所向けコントローラ 2950円

山武商会計器製作所(東京都大森)

1933

東京都大森に組立工場「山武商会計器製作所」を建設。
この場所において、工作機械輸入商から、工業機械および計器の製造販売を行うメーカーへと変身を遂げた。

ブラウン社の部品で山武商会計器製作所が組み立てた
第1回完成品(1935年)

1939

蒲田工場を新設。また、当時比重の小さかった計器事業専門の別会社「日本ブラウン計器株式会社」を設立。武彦の次男、利彦が代表となった。第二次世界大戦による国内の戦時色の強まりにより、同社は社名変更を余儀なくされ、「山武計器株式会社」となった。

1942

4月1日、山武商会は、“商社は生産に全く寄与しない”という戦時体制中の考え方から、「山武工業株式会社」と社名を変更。
4月27日、商社部門を分離独立させ、「株式会社山武商会」を設立。
11月21日、山武計器を合併、新たな「山武工業株式会社」を発足。取締役社長に武彦、取締役副社長に利彦が就任した。

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あらゆる知恵で日本に新しい技術を導入 1936年から1953年 計測から制御へ

1936年 2.26事件が起こったこの年、山口武彦は外国の調節弁を参考にして、
わが国で初めてトップ・アンド・ボトム・ガイド型複座自動調節弁…

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トップ・アンド・ボトム・
ガイド型複座自動調節弁

1936

2.26事件が起こったこの年、山口武彦は外国の調節弁を参考にして、わが国で初めてトップ・アンド・ボトム・ガイド型複座自動調節弁の開発・生産に成功。1号機を当時の日本石油秋田製油所に納入した。

1943

太平洋戦争が勃発。米国製機械の輸入は禁止となった。
陸軍、海軍の燃料廠が10数か所の製油所新設を計画するほか、当時の日本石油(株)、昭和石油(株)、丸善石油(株)が続々と増設を進めていたため、石油精製向けの需要が著しく増加。当時の山武工業は製油所向け工業計器を数多く納入した。

1945

1945年 終戦を迎える。敗戦の痛手は深刻で、工作機械や工業計器の需要は皆無に等しかったため、従業員の給与支払いのため定款を変更して、一般の電気器具を製造した。

山武エピソード

太平洋戦争が始まるとブラウン社へ支払うべき特許使用料の送金ができなくなりました。しかし利彦は「国が戦争していても個人間の貸借関係は有効」として、特許使用料の積み立ては継続し、終戦後、総額24万7355円51銭を支払いました。戦争中に敵国への特許料を銀行 に積み立てていた事例は他になく、GHQの関係者に深い感動を与えるとともに、ハネウェル社との提携にも好影響をおよぼしました。

あらゆる知恵を絞り、なけなしの資材を利用して、電気おひつ、電気あんか、電熱器、農業用噴霧器などを製造しました。

山武記念館に展示されている電気おひつと電気あんか

1947

日本の経済政策として石炭と鉄鋼に重点をおく傾斜生産方式が採用される。工業計器の需要が増加し、流量記録積算計、差圧伝送器を中心に温度計、圧力計、炭酸ガス計などの生産を開始。

1948

戦時中休刊していた技術情報誌「山武タイムス」が復刊。誌面では、米国の重要産業における、多数の計器を使用した、効率の高い生産管理方式の実態を紹介した。

山武エピソード

現在使われている「計装」という言葉は、元は米国の資料にあった「instrumentation」という新語でしたが、当時適切な日本語訳がなく、東京大学沢井善三郎教授の発案で「計装」に決まったと言われています。

ハネウェル社との交渉に向けて渡米する
山口利彦社長(左)

1952

サンフランシスコ講和条約が発効されたこの年、山口利彦社長は渡米し、ブラウン社を吸収合併したハネウェル社との 技術提携契約の締結に成功。ハネウェル社は、工業計器だけでなく、空調制御機器、燃焼制御機器、マイクロスイッチを有しており、これらの製品、技術を初めて日本に導入することとなった。

1953

山武は当時1200万円だった資本金を倍額増資して、ハネウェル社が増資分の株式を取得。山武は戦後の日本で初めて海外企業との50対50の合弁会社という企業形態をとった。

山武エピソード

資本提携では当初ハネウェル社は51%の株式取得を提案してきました。利彦は「共同で経営を考え、喜びも悲しみも分かち合える対等関係でなくてはならない」と50対50を主張しました。結局ハネウェル社は50%で合意したのですが、今度は日本国内の通産省、大蔵省などの認可が難航しました。当時は基盤の弱い日本企業が外資に乗っ取られないよう外資は49%以下が常識だったのです。利彦は連日関係省庁を訪問し、戦前からの長いつきあい、信頼関係があることを訴えて正式認可にいたりました。

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オートメーション機器の総合メーカーとして出発 1952年から1971年 ハネウェル社とともに

1952年 4月1日、山武とハネウェルの技術導入提携契約が正式認可を受けた。
山武は他社に先駆けて海外会社と提携し、いち早くオートメーション機器…

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ハネウェル社の計装技術情報誌
「Instrumentation」

1952

4月1日、山武とハネウェルの技術導入提携契約が正式認可を受けた。 山武は他社に先駆けて海外会社と提携し、いち早くオートメーション機器の総合メーカーとして出発した。
同時に、ハネウェルからの最新の計装情報をユーザに届けることでプロセス計装の知識普及に大きく貢献した。

創業50周年記念式典(目黒公会堂)

1956

山武は創業50周年を迎えることを機に、名実ともにハネウェルとの協力関係を深めるため、社名を「山武計器(株)」から「山武ハネウエル計器(株)」へと変更した。

モジュトロールモータの
組み立て作業

1959

マイクロスイッチ、工業計器、調節弁、制御機器の4事業部制がスタートした。
制御用小型モータのモジュトロールモータの国産第1号が蒲田工場にて完成した。

藤沢工場第1期建物

1961

5月より藤沢工場が操業を開始した。
創業者である山口武彦は藍綬褒章を受章した。

1962

7月11日、山口武彦は93年の天寿を全うし、鎌倉の自邸で永遠の眠りについた。後継者である息子の利彦が戦後の混乱を乗り切りハネウェル社との提携のもと、会社を大きく飛躍させた姿を見届けての逝去であった。

山武計装発足時の実務の拠点と
なった東京事業所
(本社は、丸の内八重洲ビル内)

1963

10月1日、山武ハネウェル計器の全額出資で「山武計装株式会社」を設立。空調計装工事、調整、メンテナンスおよび制御機器の販売を行う体制を整えた。

山武エピソード

このようにメーカーが別会社として工事部門を持ったことは、当時としては画期的でした。この山武計装は、のちの山武ビルシステム株式会社となります。

山武メンテナンス本社
(北九州市小倉北区)

1965

9月27日、福岡県北九州市小倉北区に「山武メンテナンス株式会社」が誕生した。

山武エピソード

山武メンテナンス(株)は山武ハネウエルの工業計器関係のサービス業務をまずは西日本地区で行い、その後全国的に移管していきました。これがのちの山武エンジニアリング・サービス(株)、山武エンジニアリング(株)となり、さらに山武産業システム(株)へと発展しました。

1966

創業60周年を機に、社名を「山武ハネウエル計器(株)」から「山武ハネウエル(株)」へ社名変更をした。

スウェット賞

スウェット元名誉会長

1968

「カレントロニックの開発」により、アメリカ人以外で初めて山武ハネウエルの小川伸一郎が“スウェット賞”を受賞した。

山武エピソード

スウェット賞とは、全ハネウェルグループの創造的な技術開発に対して贈られる、同社元名誉会長H.W.スウェットの名を冠した賞のことです。アメリカにおいても高く評価される賞で、受賞者は非常に厳しい選考を経て決定されます。
1968年に小川が受賞して以来、多くの山武社員がこの賞を受賞しています。

1969

2月1日より東京証券市場第1部に上場された。

1972

5人の山武開発技術者がアメリカ・フィラデルフィア郊外のフォートワシントン工場に派遣され、ハネウェル社との大型共同開発プロジェクト「TDCS2000/3000」がスタートした。

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アナログ計装からデジタル計装への大変革期 1960年代から2000年代 産業オートメーション史

1961年 ハネウェル社製の電気式アナログ計器ETOSを国産化した。
ETOSセンサとして電気式圧力発信器・差圧発信器・温度変換器などのセンサ…

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1960年代 電気式アナログ計装全盛期 高密度パネル計装と計算機制御

ETOS記録調節計

1961

ハネウェル社製の電気式アナログ計器ETOSを国産化した。ETOSセンサとして電気式圧力発信器・差圧発信器・温度変換器などのセンサ群や空気圧変換器も国産化した。ETOSセンサは2線伝送方式、4~10mA信号、全トランジスタ化、高速応答・高精度が特徴。その後の電気式計器の標準となる優れたコンセプトであった。

調節弁(左・ケージ型調節弁、
右・低騒音弁)

1964

従来のトップ・アンド・ボトム・ガイド型調節弁とは大きく構造が異なるケージ型調節弁を世界で初めて商品化した。ケージ型調節弁は高安定、低騒音、取り扱い容易性などの特徴によって大ヒットした。
1970年代には当社内での生産比率が90%に達し、山武の調節弁事業は、国内のトップメーカーの地位を獲得し、センサから操作端までを一括供給できる計器メーカーとして認識されるようになった。

縦型偏差指示
調節計VSI

1965

新時代の小型計器がいかにあるべきかの模索を行った結果、オペレータの監視が容易な計器の小型化とパネルスペースの縮小化を求めるニーズに応えるべく、新しい電流平衡方式の縦型偏差指示調節計VSI(Vertical Scale Indicator)を開発した。
この年の計測展では、空気式縦型指示調節計PVSIが参考出品され、2年後の1967年には計器前面が世界最小サイズ(2インチ幅×6インチ高)の空気式縦型指示調節計N-matikシリーズが発表された。

1970年代 アナログ計装からデジタル計装への大変革期 効率を求めた「省」の時代

TDCS2000
(Total Distributed Control System)

1975

工業計器の歴史の中で、最も大きな技術革新の一つと位置づけられている、分散型総合制御システムTDCS2000が発表された。TDCS2000は従来のアナログ計装におけるPID制御に加え、より高度な演算を行うアドバンスト制御と、シーケンス制御機能を保有していたため、従来の連続制御のほかに、バッチプロセスの制御など、多様なニーズへの対応が可能となった。
本格的なデジタル計装時代の幕開けを告げ、鉄鋼プラントや石油精製プラントなど先進的なユーザでの導入が始まった。

一般配管用電磁流量計
MagneW-Mシリーズ

高評価を得た
リミットスイッチ類

1975

水質汚濁などの環境問題が浮き彫りになってくるなか、独自開発による矩形波励磁方式を採用した電磁流量計「MagneW(マグニュー)シリーズ」がデビューし、圧力欠損のない画期的な流量計として話題を呼んだ。1980年代には、MagneW 3000Plusがアルミナ精製世界トップのアルコア社(豪)で採用され、グローバル展開に踏み出した。
また、安全計装を支えるリミットスイッチが高い評価を得始めたのもこの時期であった。

1980年代 DCS(分散形制御システム)発展期 デジタル技術で更なる生産性向上へ

TDCS3000LCN

1984

この年の計測展などの展示会で、TDCS3000LCNが世界に向けて発表された。1980年代に入ってから、ハネウェル社と共同でTDCS2000の次世代システムを開発するために『プロジェクト80』という開発チームを組織し、開発された製品だった。

DSTJ3000とSFC
(Smart Field Communicator)

1985

スマート・トランスミッタDSTJ3000を発売。TDCS3000とともに多くの石油プラントや化学プラントに採用された。

SDC200

1988

デジトロニックライン温度指示調節計SDC200が発売。生産が追いつかないほどの販売量を記録し、現在の温調計の基礎を築いた。

1990年代 情報・計装ネットワークシステムの黎明期

スマート
ガスクロマトグラフ
SGC3000

1991

自社製半導体センサエレメントをはじめすべて自社技術によったスマートガスクロマトグラフSGC3000がデビュー。通常の発信器のようにフィールドに設置でき、かつ小型・軽量化されているため、プラント直結による応答性の改善や設置・運転コストの削減が実現された。
従来のプロセスガスクロマトグラフのイメージを変える、発信器感覚で取り扱える新しいコンセプトで開発された製品であった。

Harmonas

1995

通信・制御の面で信頼性を高めた二重化による冗長化構成が可能な協調オートメーション・システムHarmonas(ハーモナス)が発売された。

SES60

スマート・バルブ・
ポジショナ
「SVP3000」

小型調節弁
(CV3000アルファプラス
シリーズ)

1995

1月に起きた阪神・淡路大震災を教訓に、全国のガス事業者に対して、感震センサにより遮断弁を同時に作動させる感震自動ガス遮断装置を設置することが指導された。山武は東京ガスと共同で地震災害時のガス漏れによる二次災害防止のためにインテリジェント地震センサSES60を開発。東京ガスをはじめガス会社の防災システムへの組み込みが開始された。
また、1990年代にはファインケミカルをはじめとした装置産業の高密度配管にも対応可能な小型調節弁CV3000アルファプラスシリーズを開発・販売開始した。そして、マイクロプロセッサ搭載のスマート・バルブ・ポジショナSVP3000が登場。操作端のオンラインレンジ変更、診断、弁位置情報の発信など機能高度化の幕開けとなった。

2000年代 ネットワークシステムのオープン化 生産の最適化と社会への貢献へ

Heat Value Gas
Chromatograph HGC303

2001

欧州で始まった天然ガス熱量取引に対応して世界最小のガスクロマトグラフHGC303を発表。利便性が認められ発電所やLNG船でも採用が進んだ。

蒸気流量計
STEAMcube

エア管理用フローメータ
AIRcube

2003

現場では低温弁や差圧・圧力・温度の複合半導体センサを応用したエア流量計AIRcube、翌2004年には蒸気流量計STEAMcubeなどの機器がエネルギー管理用として数多く導入された。
2000年代には、生産制御システムIndustrial-DEOが登場し、オープンアーキテクチャを採用することで、異機種接続および進化する周辺機器への対応を可能とした。
生産の高度化・最適化、品質管理マネジメント、エネルギー・環境マネジメントなどの現場革新は進み、オートメーションが産業をとりまく社会全体にも貢献しはじめた時代であった。

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24時間365日稼働のビルを支える管理システム 1960年代から2000年代 ビルディングオートメーション史

1964年 このころ、電子計算機の普及、照明負荷の増加などにより、
冬でも冷房を必要とするビルや、24時間365日稼動するビルが出現し…

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1960年代 初期ビルディングオートメーション

1964

このころ、電子計算機の普及、照明負荷の増加などにより、冬でも冷房を必要とするビルや、24時間365日稼動するビルが出現しはじめ、ビルの空調システムは複雑・多様化し、制御機器やビル管理システムの役割が重要となってきた。
具体的な例を挙げると、NHK放送センターは放送の24時間対応にあわせて、24時間365日運転が求められ、また、ソニービルは照明と来訪者のために冬でも冷房が必要となっていた。

1968

日本初の超高層ビル(霞ヶ関ビル)の建築以降、高層ビルの建築ラッシュが進み、都市部は超高層時代に突入した。特に、超高層化時代を代表する東京都新宿区周辺の超高層ビル群建築には、山武の製品が数多く使用された。

システム6J

1968

これまでビル毎に設計されていた中央監視盤を標準化した中央監視システム「システム6J」を開発。ビル設備はビルによって全て異なるため、中央監視システムを標準化することは困難と考えられていたが、仕様決定や試運転、納入後のサービスに至るまで標準化を行った結果、全国的に普及させることができた。

1970年代 第二世代ビルディングオートメーション DELTA

ルームサーモスタッド

1970年代に入ると、冷暖房は贅沢品という考えは消え、事務所ビルや百貨店ばかりでなく、町の喫茶店からパチンコ店まで、冷暖房完備が当たり前となった時代であった。右のルームサーモスタッドは日本での冷暖房の普及を支える一端を担った。

DELTA2000システム

1972

ハネウェル社から輸入した新商品DELTA2000の発表会を行った。
ビルが大型化、高層化、広域化するに伴い、その諸設備は複雑化し、諸設備の集中管理の要望が強まった。こうした要望に対し、DELTA2000は、超高層ビルのような大規模ビルや地域に散在する複数のビルを集中管理し、空調のみならず電気、衛生、火災報知、盗難予防等ビルの諸設備をすべて管理、制御できる中央管理システムとして開発された。管制対象として最大2万点という驚異的な能力を持った製品であった。

DELTA2000シリーズ500(手前)
およびシリーズ1000(奥)

1977

DELTA2000は日本国内向けとしては価格が高く、中小建物向けの国産化を検討。その結果、中・小規模の建物用のDELTA2000シリーズ500(DELTA500)の開発を行い、この年に発表した。
1973年、1979年にはオイルショックが起こり、日本の経済が低迷する中、ビル空調に省エネ制御が求められるようになったが、DELTA500は当時開発されたばかりのマイクロコンピュータを用いた中央監視システムで、省エネルギー制御ソフトウエアを搭載した、時代に合った製品であった。

1980年代 第三世代ビルディングオートメーション 省エネ管理SAVIC

1980

山武独自の中央管理システムSAVIC200/500/800を開発した。
ハネウェル社から導入したDELTA2000シリーズは、価格以外にも日本の顧客に合わせていくには無理があり、何よりも日本語表記ができないことが致命的であった。そこで山武は、SAVIC200/500/800にCRTによるカナ文字リスト表示を採用した。

1982

管理点数100点の小規模向けシステムであるSAVIC-ECが開発された。現場側の管理点との接続は直接EC本体に接続する方式で、BA基本機能のほか、省エネプログラムを搭載していた。

SAVICシリーズと各種空調制御機器

SAVIC1000

SAVIC2000

1983

1983年には、管理点数1000点/2000点の大規模システムであるSAVIC1000/2000が開発された。BA基本機能のほか、省エネプログラムを搭載しており、マンマシンのCRT画面は日本語(漢字)表示が可能となった。

1984年に開発されたパラマトリクス-IIは
山武記念館に展示されている

1984

パラマトリクス-IIを開発した。
初代の各種熱源容量コントローラ パラマトリクスは、70年代に開発された。春夏秋冬の四季がはっきりしている日本では、季節によって熱源機器の機種切替、台数切替が、建物の施設管理者の重要な仕事であった。その分野で活躍する製品ということで、山武はこのようなユニークな製品を開発させた。
このパラマトリクスは、空調業界で熱源制御コントローラの代名詞になっていき、1984年にパラマトリクス-Ⅱが誕生したあとも、1998年にパラマトリクス-Ⅲ、2011年にパラマトリクス4と、後継機種を開発し続けている。

BOSSセンター

1984

10月、東京に遠隔監視によるビル管理代行サービスを提供するBOSSセンターを立上げた。少しずつ需要が高まり、翌年1985年には大阪にもBOSSセンターを設置した。

savic-net50

savic-net20

1987

savic-net50/20シリーズを開発した。従来空調設備の運転が主であったが、防犯、防災、照明設備などを統合して管理できるようになった。また、情報通信系との連携もでき、警報が発生したときにPBX経由で管理者に音声で通知できるようになった。

1990年代 第四世代ビルディングオートメーション 統合化BAS

1990年代に入ると、子孫の時代にも栄える生態学的に健全な街づくり「エコシティ」を目指す時代になり、やたらとビルを建てるのでなく、都市生活に必要な景観や動線を含めた街づくりが官民の間で検討されるようになった。
ビルを単独で捉える時代から、六本木ヒルズや横浜みなとみらい21、千葉幕張新都心、埼玉新都心計画など特定の地域を都市として再開発するような企画が現れる時代に移った。

BESTMAN保守サービス

1991

保守サービス商品である「BESTMAN」が誕生した。これはBuilding Environment System Technical Managementの略である。故障してから修理するのではなく、故障を予見し、その発生前にメンテナンスを行うという予防保全の考えを具現化したものであり、保守・保証からパーツ管理に至るまで、あらゆるサービスを機能的に体系化した。

1998

10月から建物の省エネルギー支援事業(ESCO)に参入した。
コスト削減、環境保全、設備の安定稼働という顧客のエネルギーに関わる課題を戦略的に解決していくため、建物設備の最適稼働支援・評価・改善提案から、省エネ改修、各種エネルギー調達に至るまで、顧客それぞれに合わせた最適なソリューションを実現する「TEMS(Total Energy Management Service)」を展開した。

クリティカル環境システム

1999

新規事業として、対象市場が化学系の研究施設、動物飼育施設、バイオサイエンス実験施設、院内感染の危険のある病院などといった、空気の質そのものを取り扱う「換気をコア」としたクリティカル環境事業をスタートさせた。

2000年代 ネットワーク型ビルディングオートメーションシステム

アクティバル

2002年にハネウェル社の保有していた山武株が完全に放出され、独自の事業開拓が始まった。山武はその事業開拓の施策の中で、中国における生産拠点をベースにコスト削減を図るとともに、付加価値の高い商品を作り上げ、市場に提供していくことにした。
バルブとアクチュエータを一体化した小型・軽量バルブアクティバルは1980年代半ばに日本で開発されたが、2000年代に入ると、中国の大連山武機器有限公司で製造をスタートさせはじめた。

savic-net FX

2004

新世代BAシステム「savic-net FX」の販売を開始した。「建物監視をいつでもどこでも」「監視端末は自由に選択」「建物規模によらない自由な機能選択」といったキーワードを軸に、顧客にとって最適なシステムを提供した。

インテリジェントコンポシリーズ

2006

情報量の拡大と計測/操作といった基本機能そのものの高度化を実現する制御端末「インテリジェントコンポ」シリーズが開発された。「インテリジェントコンポ」とは、自己で機器・制御情報を保持し、また環境に適応するように動作しうる制御・計測端末という意味で名づけられた。

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