巻頭言:感性を計測する時代
篠田 裕之
Hiroyuki Shinoda
東京大学教授
Professor of the University of Tokyo
人々が何を感じているのか、個人の内面の状態を客観的に計測し、活用する時代が始まりつつある。いわば「心」の状態の計測である。そのような計測技術は、あくまで脳科学などの基礎研究での話題であって、それが日常生活と直接関わるのは遠い将来のことと考えられていた。少なくとも10年前はそうであった。ところが近年、10年前には想像していなかった形でそれは現実のものとなってきている。
2008年ごろに、計測自動制御学会で「SICE City 生きがい創出都市」という勉強会を実施したことがある。21世紀の科学技術は人々の心を支援するべき、というテーマで、様々な角度から議論を行った。しかしその中で、人々の心を科学的に計測することについて、深く議論することはなかった。現実味がなく、実りある議論になるように思えなかったからである。そもそも科学の基本は、主観的要因を明確に切り分け、排除することである。そのため、心は科学にとって最も扱いにくいものに思えたし、心を科学的に計測・制御することをタブー視する感覚もあった。
では最近の10年間で何が変化したのであろうか。第1の変化は、人間の思考や行動が情報化し、心の一部やプライバシーをコンピュータに委ねる状況が既成事実化したことである。Webで何を検索し、購買し、どこを訪れたか、など、本人の思考と嗜好をそのまま反映した行動履歴や状況写真、会話までもが自分の手が届かないコンピュータの中に残されている。それに基づいて広告を表示することは、言い方を変えれば「心の計測と制御」である。「機械が心を推定する」こと自体は、すでに突飛な問題設定ではなくなってしまった。
自分が機械に計測されること、例えば写真や動画を撮られることに対する警戒感も大幅に薄れた。店舗に設置されたカメラで店内が撮影されていることは、防犯と安全・安心のためにむしろ当然のことと受け止められている。言うまでもなく、そこで撮影されている映像には心の情報が豊富に含まれている。表情や振る舞いを観察すれば、その人が商品に対して何を感じているか、かなりの確度で推察することができる。また、心拍、発汗、血圧などの生体情報も、ウエアラブルセンサで常時計測できるようになってきたが、これらはいわゆる「ウソ発見器」を常時装着しているのと同じことである。
そしてもう1つ、大きな違いが、機械学習と呼ばれる処理技術の実用化である。1人の人間の瞬時的な心の状態は、言葉の組合わせでは定義しきれない曖昧かつ多面的なものであるが、長時間での行動・動作履歴や生体情報などを総合すれば、かなりの程度その状態を同定することができる。「心」とは何か、その実体を言葉で書き下すことができなくても、例えばあるサービスに対する満足度や、作業に対する関心、やる気、など、心の状態を表すパラメータを推定するための材料は、客観データの中にすでに十分含まれている。近年急速に整備された機械学習は、この推定の可能性を大幅に広げた。
このように人間の内面を推定することが技術的に可能となり、人々もそれを受容する時代が急速に訪れることとなった。特定の営利企業が情報を独占する危険や、プライバシーの問題など、未解決な問題を抱えつつも、それをポジティブに活用する方法を模索する時代になったことは間違いない。
オフィスの設計や自動化の考え方も今後大きく変化していくと考えられる。すでにオフィスの中ではセンサフィードバックが重要な役割を果たしている。人々の活動状況を計測し、それに基づいて制御することで、室内をより快適な温度や明るさに調整し、同時にエネルギーを節約することもできる。これに加えて働く人の内面情報も計測してフィードバックできたら何ができるであろうか。
例えば集中力を高めたいときは、温度はやや低い方がよいであろうし、過度に緊張している場面では、柔らかい照明にし、リラックスを誘導する香りなども効果的である。ちょっと仕事に飽きてきたタイミングで、壁の一部のデザインや、照明が変化し、そよ風が吹いてくれたらリフレッシュできる。このように、各人の内面が計測できたら、各人の内面の状態を最良に保つように環境を変化させることが可能になる。
さらに進んで、「イライラしている時間が長いので、少し休んだ方が、効率が上がりますよ」「ストレスを感じていないので、もう少し頑張っても大丈夫ですよ」など、自分の内面を客観的に教えてもらえると、自分のパフォーマンスを最大化する方法を自分自身が見出すための手がかり情報になる。集中して頑張ったときに「頑張りましたね」とコンピュータから言ってもらえると、本当に集中していたことが自分自身でも確認できる。
これらのフィードバックがおせっかい過ぎる場合や、常に管理されているような気がしてストレスになっては逆効果であるが、働く人々の生産性をさりげなく高め、健康にも導いてくれるのであれば、ぜひ活用したいはずである。環境が心を読んでくれる時代は、危険もあるが、可能性も大きい時代である。
著者紹介:
1988年東京大学工学部物理工学科卒業。90年同大学院計数工学修士,同年より同大学助手,95年博士(工学)。同年東京農工大学講師,97年同助教授,99年UC Berkeley客員研究員を経て2001年東京大学大学院情報理工学系研究科助教授,2012年同教授,2013年より東京大学大学院新領域創成科学研究科教授。ハプティクス(触覚技術),センサシステムとデバイス,二次元通信,ヒューマンインターフェース,光・音響・生体計測などの教育と研究に従事。
この記事は、技術報告書「azbil Technical Review」の2020年04月に掲載されたものです。
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